サーフィンと恩師とへんなやつがカッコいい

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僕はプールの底から青い空をずっと眺めていました。。。

そう、溺れたのです。

それは幼稚園の頃だったと思います。母方の実家茨城県水戸市からちょっと行ったところにありました。前年までは母に連れられて行っていたみたいですが、その年は、姉と2人でいったみたいです。何日目だかはわかりません。おばあちゃん家の親戚のおじさんに連れられてプールに行きました。幼少期からませていたんでしょうね。おじさん家の(たぶん)娘さん(僕よりいくつか年上女性)に興味を抱きました。プールでもカッコつけたく思ってたみたいです。はじめは浮き輪をつけて遊んでいたみたいですが、さらにカッコつけて浮き輪もつけないで泳ぎだした記憶があります。そのプールは足がつかなかったんですね。足がつかないときは、立ち泳ぎが必要なんですね。当然できません。見事なまでの溺れかたです。一瞬で終わりました。記憶では、ヤバいと思った瞬間、息ができなくなりました。あまり苦しい記憶はありません。気がついたらプールの底で青い空を眺めていたのです。そう、三途の川を渡る手前だったのです。30分くらい見ていたらしいです。

次の記憶は人口呼吸と心臓マッサージをしてもらっている時にだんだん意識が戻ってきた記憶があります。救護していただいた方の「水出したぞ!もう大丈夫だ!」の声で我に帰った記憶があります。。。幸いにも?その後、水に対するトラウマもなく育ちました。

 小さい頃、毎週日曜日の夜に父と一緒に見る映画番組が好きでした。毎週、コーラとか飲みながら一緒に見てました。そう、あの「さよなら、さよなら」の司会の方の番組です。特に好きなのはアクションもの、西部劇、戦争映画など。。。その中で見た映画、「カリフォルニア・ドリーミー」と映画に心を奪われました。そう、アメリカ西海岸のサーフィン映画です。そこには自由があったのです。希望と夢に満ちあふれた自由があったのです。幼少の頃から夢をみるのが好きでした。本もいっぱい読みました。いつかはアメリカに行きたい。サーフィンもしたい。そんな夢を抱いてました。

子供のころ、両親に連れられて年に2回の家族旅行が好きでした。たしか小学校高学年のころに行った頃に、そう「俺たちの旅」シリーズの中村雅俊さん主演のドラマがやっていたころです。場所は、定かではありませんが、千葉県の銚子か犬吠埼のあたりです。宿から見たらそこに憧れていたサーフィンをしている方がいたのです。そんなに波はなかったような記憶がありました。幼心に「カッコいい」と思いました。これが本当のサーフィンなんだと。。。その後その海辺に降りてみると屋台でホットドッグか何かを販売している青年がいました。その方がサーフィンをしていた方だったみたいです。

日焼けした肌にロングヘア、色が抜けた髪の毛。。。まさにカリフォルニア・ドリーミーの世界でした。。。カッコいい。。。

それからすくすく成長して17歳の高校2年生の3月です。サーフィンをやる機会が舞い込んできました。ウエットスーツとサーフボードは買ったのか借りたのかは記憶にないですが、ウエットスーツは3㎜シーガルといって、半そで長ズボンです。先輩のカローラで片貝海岸へ連れて行ってもらいました。小雨が降る寒いコンディションでした。僕は現実を知るまでは、希望に満ちあふれて寒さどころではなかったと記憶してます。もう一人同級生も居たと思います。。。先輩は、なんとウエットスーツを忘れて家に戻るとのことで、僕ら2人で海に入りました。もう一人の友人は何回か経験あるのとフルスーツのウエットスーツでした。現実を見ました。。。。

波のサイズはわかりません。当然、パドリングから(腹ばいで沖に向ってクロールみたいに漕ぐこと)。。。できません。。。腹ばいになる事すらヤバいです。経験者ならわかると思います。。なんとか腹ばいになっても、スープ(波が崩れて白い泡状になった波)に押されてあえなく撃沈。。。その繰り返し。。。だんだんと疲れと寒さで。。。

ギブでした。地獄はまだまだです。。だって着替えは先輩の車の中ですよ。。。

その後、先輩が戻ってきて、台東にポイント移動。僕は放心状態でした。。。

そんな経験からもあきらめずにサーフィンを続けてました。高校3年生の時は電車サーファーでした。毎週、片瀬江ノ島、茅ケ崎、大磯と電車で通いました。同級生の仲間も増えました。そう、サーフィンが若者たちのブームだったから。サーフィンやってないと女性にもてねいしね。。思春期にモテルかモテないかは、かなり大事ですからね。。

僕もモテたい願望は人一倍ありました。ただ、もっと真剣にサーフィンに取り組んでいきたいと思ってました。ここでモテたらサーフィンにのめり込んでいくことはなかったかもしれませんが。いかんせモテない。。。サーフショップも数件行きましたが、どうも合わなかったのでしょうか。

そんな矢先に田無市にあったサーフショップを尋ねました。

そこには、アフロで45度のメガをかけた方が居ました。今まで行ってみたサーフショップは、いわゆるカマ系な方でしたが。。。えっっっ。。。

なんなんだこの人は、、、。

ショップ内には、どうでもよく置かれた数々のトロフィー。

全日本2位のトロフィーまでもが、どうでもよく置かれてる。。。

なんなんだこの人は、、、。

そう、人生の恩師となる方との初対面でした。新会社では、I部長です。

初めて一緒に行った場所は、確か片貝海岸でのプロテストの時だと思います。3月で雨、波はほぼ、クローズアウトです。その方は、1人で荒れ狂う海に入っていきました。

本物だ! これがサーフィンなんだ! 

即、弟子入りです。

千葉、茨城、福島といろいろな場所に連れて行ってもらいました。冬は茨城の原発を冷やして海に戻すポイントがあり、水が暖かく、波も良かったのでよく行きましたね。

もうドップリとサーフィンにはまりましたね。サーフィンを通じて人生観も教えていただきました。当然、1人でも海に通いました。恥ずかしながら全日本目指してました。

師匠からよく「へんなやつ」と言われてましたね。自尊心が強いお年頃なので、はっきり言って嫌だったですね。でも今思うと確かにへんなやつだったですね。今もかな。。

芸能界見ててもいっちょ前に偉そうな発言してるお笑い芸人なんて、若いころの映像・発言などかなりへんなやつですよね。。自己主張が強いのでしょうね、、、

師匠も一般的世間から見るとかなりへんなやつだったと思います。ここで僕的には、かなり鍛えられたと思います。人生の先輩なんてなかなかいないじゃないですか。ここで出会ってなければ、どんな人にそだったのかな。。。

この業界に長くいると、サーフィンで食っていくにはちょっと厳しいこともわかってきました。そう、世間はバブル経済期でお祭り騒ぎだったんですね。。。貧乏サーファーの僕には無縁でした。。。同期の友達たちはサーフィンなんか辞めてブランドスーツにハイソカー(当時ソアラ・クラウン・クレスタ・マークⅡなどの高級車)に女乗せてましたね。僕は、、、ビーチサンダルにTシャツ短パンで当然モテない、、、。ちょっとうらやましかった時代ですね。僕もローン組んでいい車に乗りたかったのですが師匠に反対されて購入しませんでした。

ただ、なんとなく先が見えてきたので、この業界から手を引く考えを少しづつしてました。そう、結局安定しているサラリーマンに憧れたのです。

その後、T自動車に入社して、師匠とも疎遠になりました。。。念願の彼女も出来た事もきっかけでした。夏は毎週サーフィン行ってましたが、冬は行く機会がグンと減りましたね。今思うともっとサーフィン突き詰めてやってみてもよかったかなと思います。

結局、「へんなやつ」から普通のやつになってきたのでしょうか。。。

周りに流され始めてきたんでしょうね。。。

カッコいい」より安定。。。

みんなと同じ。。。

師匠は、相変わらずに自分を貫き通してましたね。

さすがです。